適度なストレスは、脳の若さを保つらしい
適度なストレスは脳の若さを保つのに有効らしい。人生の折り返し地点を、とうに過ぎてしまったので、ここからは残された時間をいかに良い状態で保っていくかが、とても大事な勝負となる。
特に、「ちょっと自分には難しいかな」というくらいのことに挑戦するといいらしい。最近、若干ぬるま湯に浸かって劣化が進んできたので、若返りのためにちょっと大きめのチャレンジをしてみることにしました。
2019年1月にMIT のMedia Labで開催される「Reality Virtually Hackathon 」に思いつきで応募することにした。
ただただ、MIT Media Labにもう一度行きたい!関わっていたい!という衝動に突き動かされ、苦手なハッカソン、しかも英語という無謀な挑戦。
でも、実は、2014年4月に初めてMedia Labに行った時も、ほぼ英語も何もわからないのに、えいやっ!て、飛び込んだ。そのおかげで、今の自分がある。あそこは私にとって、パワースポット的な感じなんだと思う。
今回はチームではなく、1人での参戦なのでめちゃくちゃ怖いけど、まあ、怖いだけで失うものは何もないからたぶん大丈夫だ。
応募を決心したのは締め切り2日前(時差のおかげで3日前)。
まず自分のロールをなんと書いていいかわからない。いつもふたりチームで活動してるけど、自分になんのスペシャリティがあるのか?と聞かれるととても困る。いつも困る。
選択式の項目は、恐れ多くもDesigner を。ほら、最近デザインって幅広い意味で使われてるから、ね?的な言い訳をつぶやきながら選ぶ。
苦戦しながらも、締め切りドリブンで志望動機やらレジュメやら書いた。300文字(letters)とか余裕じゃん!と思って、よくみたら300語(words)で、軽くパニクる事件もあったけどなんとか応募だん!
応募したくせに、もし受かったどうしようと、激しい動悸が止まらないので、もしかすると過度なストレスかもしれないが、あ、これ若返り中だなとポジティブに考えている。
ちなみに、第2弾の募集もあるようなので、もし興味がある人がいたら応募してみるといいかも!Media Labに行けるチャンスなんてたぶん滅多にないからさっ。
しかも参加者のDiversity を大事にしてるから日本人とか応募少なそうだし、チャンス高めかもしれない。
まあ、結果はわかんないけど、少なくとも英語への強いモチベーションにはなるから、応募しただけでも自分にとってはプラスだと信じてがんばろう。
では、良い週末を。
まずは被って、話はそれからだ。
2016年はVR元年と呼ばれてた。
Google cardboard や Gear VR などのスマホを使ったお手軽VRから、PlayStation VRや Oculus Rift 、HTC Viveなどのハイエンドなものまで、さまさまなデバイスが登場した。
コンテンツは、まずはエンターテイメントからという感じだけど、デジタルマーケティングでも活用したいという話が増えてきてる。集客イベントなどの事例はよく見かけるよね?
もし、万が一、まだ、実際に自分で被ったことがないとしたら、ぜひ、何としても体感して見ることをおすすめする。隣で友達が被ってるのを「見てたよ、とかはダメだよ?。自分で体感しなくちゃ。
最近は、VR専用のアミューズメント施設や展示会、イベント、観光レジャー施設とか、体感できるところは増えてきたので、探せば難しくはないはず。
これまで、たくさんの人のVR初体験にたちあってきたけど、どんなクールそうな人でも、ほとんどの人が「おおっ」て声が出ちゃう。想像を超えた、臨場感、没入感。見ていて一番楽しい瞬間でもある。
こればっかりは体感してないと、企画書からは全然想像できない。魅力も理解できないこともあれば、逆に夢をみすぎてしまうことだってある。
VRの普及には、もっとコンテンツの発明も必要だし、体感の改善も必要になってくると思う。
アダルトやホラーコンテンツはやっぱりすごいパワーあるけど、もっと普及を目指すならブレークスルーが必要そうだな、と思う。
技術の進化も大切だけど、やっぱり活用アイデアだよね。
個人的に試して見たいのが、メンタルヘルス系の利用。あの、外界との断絶感をうまく使って、クイックにマインドフルネスの実践ができたりとかできそうな気がする。(人によるだろうけど)
あと、ユーザー視点で繰り広げられたり、インタラクティブだったりするコンテンツが多いんだけど、完全傍観者でいられるコンテンツもあってもいいなぁ、と思う。
Oculus の出たての頃に海外のクリエーターが勝手に(?)作っていた、「となりのトトロ」の再現シーンの中に入れる作品、あれは素晴らしい体験だった。
好きな映画やファンタジーの世界に入り込めるなら、正直出てこれない自信がある。
今後の展開で楽しみなのはやっぱり、マルチモード。複数人での世界の共有はゲームだけじゃなく、ソーシャルなプラットフォームとしてのVRにはかなり期待したいところ。
Facebook Social VR Demo - Oculus Connect 2016 - YouTube
この、F8 2016 (Facebook の開発者カンファレンス)でのプレゼンは素晴らしかった。かなり楽しそう!
みんなのトラウマになりつつあるセカンドライフの失敗に学ぶなら、キラーコンテンツの登場、デバイスの普及、利用者の増大、で、はじめてメディアとしてのVRショップやらビジネス活用の可能性が生まれてくると思う。
もし、VRがある世界を実現させたいなら、まずはVRを普及させることから始めよう。自分で使ってみる、アイデアを考える、コンテンツ作ってみる。
そんなことからブレークスルーが生まれるかもしれない。
まあ、これはVRだけに限った話じゃないけどね。微弱ながら少しでも未来に貢献できたら幸いである。
「察する」センサー、「慮る」テクノロジー。
日々のヒトとのコミュニケーションで、大事だと思ってるのは、相手が、どんな状況で、何を考えているかを「察して」、「慮る(おもんばか-る)」こと。
まあ、程度の差こそあれ、みんなやってると思う。
特に日本は、単一民族の島国という状況と、異を嫌い同調性を問われる性質により、特に「ハイコンテキストな社会と言われていて、KY(空気読めない奴)が悪、と思われてる。
ちなみに、人種のるつぼと称されるアメリカでは、ちゃんと伝えない奴が悪、となる。まあ、このズレはなかなか大きなハードルだったりするけど、その話はまた今度。
この、「察する」と「慮る」をなんとかデジタルなコミュニケーションでも再現したいと思っている。センサーで「察し」て、そのデータから相手のことを「慮る」。それこそがデジタルならではの「おもてなし」になる。
正直、デジタルやテクノロジーを、「意識的に使ってもらう」ことを前提として、合理性や利便性をアピールするのは、ちょっともう時代遅れな感じがするんだよね。
やっぱり、テクノロジーの未来像としては、意識的に使うんじゃなくて、「勝手に半歩、一歩先を察して」先回りして動いてほしいよね?
世の中は、もう、けっこう便利になってきていて、新しい仕組みを生活にとり入れたりするのって、ちょっとお腹いっぱいだったりするじゃん?
やっぱり、気持ちいい、楽しい、ワクワク、スマート、美しい、そんな体験じゃないと、生活に取り入れてくれないと思う。
人間でもできたことを、代わりにテクノロジーがやりました、だけじゃ、やっぱ面白くない。
新しいデジタルならではのセンサーで、今までとれなかったコンテキストを察することができたら、面白いことができそう!ってワクワクする。
私がいつも、新しいコンテキストアウェアなサービスを考えるときに使ってる、ちょっとしたフレームワークがある。
- 何を使って(センサー)
- 何を察して(データ)
- どう意味づけて(判定ロジック)
- 何を提供するか(サービス)
この4つのポイントで整理して、どっかになにか新しいものを入れるように心がけてる。
新しいセンサーはどんどん出てくるし、精度もどんどん上がっていく。実際、それを使う面白い活用アイデアが足りない。全然追いついてない。
もったいないなって思う。
新しいテクノロジーを「使えないな」って、ユーザーに思わせたら、我々の負け。そのテクノロジーを生かす魅力的なアイデアを、我々が思いつけなかったら、人類の進化がまた一つ遅れてしまう。
そんな、よくわからない使命感に背中を押されてる。
ごめんね、Google Glassちゃん。キラーコンテンツつくれなくて。
HoloLensちゃんは、まだこれから。がんばるね!
さあ、マヤ、ペルソナをかぶるのよ?
「ガラスの仮面」という漫画をご存知だろうか?北島マヤという平凡な少女が、演劇の才能を開花させ活躍するスポ根、演劇マンガだ。
北島マヤは、千の仮面をもつ天才と呼ばれており、架空のガラスの仮面をかぶると、憑依されたかのように演じることができる、という話しだ。
マーケティングでは、「ペルソナ」という言葉がある。ある製品やサービスのターゲットを明確にするために、典型的なユーザー像を具体化したものを指す。
「ペルソナ」の作り方、みたいな話は専門家にお任せするとして、今日は、北島マヤ的仮面のかぶり方について話したい。
私は、「仮面をかぶる」行為が結構好きだ。何かになりきるのって、結構楽しい。妄想の域を出ないし、独りよがりかもしれないけど、新しい仮説を見つけたり、企画の面白さを検証する時には、
「さあ、マヤ。仮面をかぶるのよ。」
心の中で、北島マヤになりきって仮面をかぶる。
ヒトの心の動きに興味関心があり、これまでライフワーク的に研究してきた中で蓄積された、無形のデータを駆使して「仮面をかぶる」。
ステージも作る。どんなシーンで、どんな気持ちでそこにいるのか。コンテキストのイメージを膨らます。
こういうのって勝手な思い込みだし、完全にステレオタイプだから、必ずしも正解が導き出せるわけじゃない。でも、明らかに、間違ってる時はわかる。
「あ、これはないなーっ」とか、
「あ、なんかこれはいい感じにハマりそう」
みたいなのが見えてくる。
マーケティングでいえば、最近じゃ、ユーザーの心の動きを時系列に表した「カスタマージャーニーマップ」なんてものもあるから、よりなりきりやすい。
ユーザーを分析する時は「滅私」の客観性が重要だけど、そのデータをもとにジャンプして企画する時は、「仮面をかぶって」主観的になりきるのが結構効果があると思ってる。
最近じゃあ、ヒトだけじゃなくて「ロボット」の仮面もかぶるようになった。
このロボットの設定は、一休さんとのび太のハーフだから、、、このロボットは、5歳児設定だから、、、とかロジカルに考えるじゃなくて、設定を読み込んで仮面を作ってかぶってみる。
イメージのデータが少ないので、どうしても自分色が出てきちゃうけど、なるべく仮面をかぶって、シナリオを作ることにしている。
久しぶりにセリフを作ろうとすると、感覚を忘れてたりもするから、なんかちょっと違和感があったりして、ロボットにもちゃんと人格があるんだなーって、感じられて面白い。
多分、これからは、AIにも性格とか出てくるのかな。夢は自分の思考の完全移植とかではあるけど、インターフェイスとして自分の仮面を作って、テンプレ化できたりしたら超面白いな、と思う。
自由に生きる、呪いの鎖のほどき方。
大ヒットドラマ「逃げ恥」。石田ゆり子さん扮するゆりちゃんの名ゼリフ
「自分に呪いをかけないで。」
このセリフは、若さの価値を過大評価して、自分自身の未来に知らずと呪いをかけている若い女性に向けて、アラフィフ女性、ゆりちゃんが発したセリフ。
実は、ドラマは見てないんですが、世の中には呪いがたくさんあふれてるなーと感じていたタイミングだったので、グッと来ました。
いわゆる常識や一般論と言われてものって呪いに近いと思うんですよね。
「逃げ恥」でいうと、「結婚して子供を持つのはあたりまえ!」とか、「若いって素晴らしい!」みたいな世間の常識であり呪いに対して、登場人物たちがいったん「No!」と言いつつ、等身大で自分らしい生き方を見出していく、みたいなテーマが描かれてる作品なんだと思う。
(まあ、見てないので推測ですが。)
ただ、このへんの話は、種の保存の観点から、遺伝子的後押しもあるので、かなり強力な呪いだったりはするけどね。(だって、若くって綺麗なのは、脊髄反射的にやっぱりいいって思っちゃうじゃん?)
それ以外にも、会社に行かなきゃ、満員電車に乗らなきゃ、家を買わなきゃ、貯金をしなきゃ、友達、恋人つくらなきゃ、社会を変えなきゃ、まあ、いろんな○○なきゃ、に囲まれて生きてると思う。
○○なきゃ、って思った時に、ふと立ち止まって、あれ?なんでそう思ったんだろう?って考えると、意外と呪いが見つかる時がある。
「あ、これ刷り込みだ。思い込みだ。」ってことがわかると、鎖を解いくことができて、とても自由に考えたり、動けたりできるようになる。
これからのダイバーシティの時代に、自分の中の呪いに気づいて、コントロール下におくトレーニングをすることはとても重要だと思う。
マイノリティは、マジョリティの思い込みから生まれているケースも多々あるから。
あ、でも、その人とにとって人生の目的や生きるエネルギーに昇華できてる呪いは、別にそのままでもいいと思うんだ。ただ、何か苦しんだり悩んでる根っこが自分の中の呪いだったら、外した方が生きやすいんじゃないかな?というだけの話。
ちょっと脳が分裂しそうになるけど、「それって呪いのせいじゃない?」って自分に聞いてみる。アイデアを考えてる時なんか、思い込みを反対にするだけで、新鮮なネタになることだってある。
限られた時間。
気持ちよく、自由に生きれたらこの上ないしあわせである。
禁煙とダイエットと踊る小人
村上春樹の小説が結構好きだ。
以下、村上春樹著『踊る小人』という短編のネタバレを含みます。とても短い話なので、ご興味がある方はまずは本編を読んでから、続きをどうぞ。
軽くあらすじを。
ものすごく乱暴にまとめるならば、
主人公の男が、夢の中で踊る小人(悪魔的なもの)に出会う。主人公の願いを叶えるために、条件(約束)付き契約で小人の力を借りることができるが、もし、その条件(約束)を果たさなければ、体を乗っ取られてしまうが、、、、はたして。
と、いうようなストーリーだ。
ここまでは、昔話によくある悪魔との契約的な展開。主人公が成功する『トム・ティット・トット』か、失敗する『人魚姫』とかね。
『踊る小人』は、ちょっと違う。
主人公はなんとか条件をクリアし、望むものを手に入れた。
でも、そこで小人はこう言った。
「しかしこれで終わったわけじゃない」と小人はつづけた。「あんたは何度も何度も勝つことができる。しかし負けるのはたった一度だ。あんたが一度負けたらすべては終る。そしてあんたはいつか必ず負ける。それでおしまいさ。いいかい、俺はそれをずっとずっと待っているんだ」
『螢・納屋を焼く・その他の短編 』村上春樹/著 新潮文庫1987
ほんと怖い。このセリフほんと怖い。
小人は無限。何度だって力は貸してくれるけど、失うものはない。いつか主人公が失敗するのをただ、長い時待ち続けることができる。
だが、こちらはどうだ、リスクがある勝負をしつづけなくてはならない。終わりも安らぎもない。逃げられない。
理不尽すぎる。こわい。
実は、数年前までタバコを吸ってました。ガンガン喫煙者でした。今では、全くの非喫煙者です。
ある日を境に、自分の意思で非喫煙者に戻ったんですが、「禁煙」って、この小人との勝負とおんなじなんだなーと思った。
「禁煙」って、タバコを禁じてる状態だから、吸いたいのに我慢してる状態なんだよね?だから、いつか吸っちゃうかもしれないっていう、小人との戦いをつづけてる状態なの。そして、「禁煙何年」って数えるのは、小人との勝負して勝てた回数を数えてるだけなの。
寿命が尽きて、勝負に意味がなくなるまで続く、圧倒的不利な戦い、それが「禁煙」。
もし、タバコやめたいな、って思ってる人がいたら、「禁煙」なんてしないで、一瞬で「非喫煙者」になることをオススメします。小人と勝負しつづけても、絶対しあわせになれない。
ある意味、「ダイエット」も小人との勝負なんだけど、これはね、やっぱりしんどいね。「食べない」わけにはいかないから、「いい感じで食べ続ける」必要がある。
リバウンドの恐怖と戦いながら、寿命尽きるまで戦いつづけないといけないらしい。これまた理不尽だ。
ただ、1本でも吸ったら負けの「禁煙」とは違って「食べすぎない」みたいな程度の問題になるから、ちょっと負けてもリカバリできそうなのが救い。
ちなみに、このブログを始める時に、継続に価値があるものをあえて始めるのは、あの小人に自分から勝負をしに行ってる気がして、とても怖かった。
21日目の勝負。なんとかまだ勝ちつづけてるけど、あの小人が森の中からこっちを見てる。
まずは「楽しい」からはじめよう、STEM教育。
新しいオモチャ、PETSが来た。
「PETS」(ペッツ)は、いろいろな方向のブロックを背中に挿し込んで、命令された通りに動くプログラミング学習用のロボットです。
このPETSとの出会いは、まだプロトタイプだった時代に、一度、甥っ子(5)を連れてワークショップに参加させてもらってのがきっかけ。
まだ、文字もわかんないような年の子が、移動ルートを設計して、矢印ブロックをならべて、ロボットを動かしてゴールを目指す。
一見、ただのパズル?かもしれない。
でも、まずは設計して、組み込んで、順番に処理させてみて、失敗したら直して、必要ならループも入れて(なんと、ループ処理ブロックもある!)プログラムの考え方の基礎を、フィジカルな木のオモチャで遊びながら学ぶことができるスグレモノだ!
大人だって、つい夢中になっちゃう、楽しいオモチャ。
オバマ大統領が演説の中で、みんなプログラムしろよっ!と説いたことは記憶に新しいですが、アメリカでは、STEM教育というのが、重要な教育課題のひとつとってしてとりあげられている。
STEMとは、Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Mathematics(数学)の頭文字をとった教育における学問の領域のこと。
日本でも、小学生のプログラム教育が導入され、より多くの人がプログラミングを学び、活用できる時代がやってくる。
それと平行して、ツールもどんどん進化し、Scratch みたいなビジュアルプログラミングとか、ノーコードでいろんなことが実現できる世界になっていくかもしれない。
それでも、コンピュータの得意なこと、苦手なことを理解して、今使える技術を使って、いかにしてゴールに導くのか設計するスキルは、今後もめちゃくちゃ重要なはず。
それがオモチャで遊びながら学べるなら最高だよね。
私もSTEM系の面白さに、もっと早く気づいてたらな、なんてちょっと羨ましくなっちゃうな。